高橋 信(東北大学大学院工学研究科技術社会システム専攻)

 

新年早々暗い話で恐縮ですが私の父は私が3歳の時、昭和43年に亡くなり、私自身はほとんど記憶がありません。最近、NHKのファミリーヒストリーという番組が好きでよく見ているのですが、それがきっかけとなり私自身のヒストリーにも興味を持つようになりました。実家に帰り調べてみると父は私に似て新しもの好きだったようで、その時代にして珍しく多くの写真の記録が残っていて、それを調べていくと少しずつ興味深い事実が分かってきました。

 

父は東北電力の山形支店に勤めていたことは聞いて知っていましたが、経理などの内勤の事務系の仕事をしていたと思っていました。ところが出てきた写真を見ていくと水力発電所・ダム・水門の写真が大量に出てきたのです。それで母親に改めて尋ねてみると、実は父は水力発電所の設計や管理業務に携わっていたらしいのです。私は趣味で子供の頃からダムや水力発電所が大好きで、父の仕事がそれに深く関係していたことを初めて知りとても嬉しく思いました。今では東北電力さんとは仕事上でのお付き合いもあり、時々安全に関する講演などもさせてもらっていますが、父が生きていたら喜んでくれたかなと思うこともあります。

 

写真の中で特に興味深かったのは、多分結婚前の青年時代の雑然とした自分の部屋の写真です。昭和20年代の後半だと思われます。写真の左上には明らかに自作と思われる機械がありこれが何なのかとても興味が湧き、専門家の人にこの機械を詳細に検討して頂きました。最初はアンプかと思われましたが、拡大した写真を見るとバリコンのようなものが見えるため、ラジオではないかという結論になりました。右側の円筒形のものは真空管にシールドを被せたもので、当時短波ラジオや中波ラジオでは良く使われていたのだそうです。私も中学の頃、真空管でラジオや送信機を作ったことがありますが、それを遡る30年前に親父も同じことをしていたのだと思うと感慨深いものがあります。昭和20年代後半にこんな部品が全部揃って自作ができたのですね。逆に、自分で作らないと既製品は少なくて高価だったのかもしれません。

 

これ以外にも多くの写真や8mmフィルムが出てきて私の父を巡るヒストリーを追う旅は続いています。8mmフィルムには3歳の時の私が近所の公園で遊ぶ動画が残されていました。それは父が亡くなる半年前。そこに父自身の姿は写っていませんが、撮影していた父の温かい眼差しが感じられました。

 

第3回リレーエッセイ画像