石井 裕(岡山県立大学)
コロナ禍で日常生活が大きく変貌する中、自然は作業者の心の準備など待ってくれず、今年も農繁期に入りました。私もこの時期から、週末ごとに米作りの準備作業に追われます。その傍ら、小さな畑でいつものミニトマトやキュウリなどに加え、丸オクラや白ゴーヤ、マイクロトマトやマイクロキュウリといった、あまり流通しなさそうな野菜苗を購入し育てることもあります。
野菜作りは食育のため、自分たちの楽しみのため、日頃のストレス解消のため、色々と理由は挙げられますが、10アールほどの田んぼで米を作るのは「そこに田んぼがあるから」に他なりません。固定資産税や燃料・肥料等のランニングコストを考えると、買った方がはるかに安いです。それでも、父を含め先祖から預かった土地を、そのままの形で残すことの意味を考えながら米作りをしています。
米作りをしていると、雑草を処理して「まあ、きれいになったねぇ」「ここは水がきれいだから元気に育ちそう」などと、田んぼを主語として話しかけられることがあります。その時、私は田んぼのエージェントであり、私個人の主体は意味をなしません。田植えの後などは、小さな子が田んぼを覗き込み、水の中の様々な生き物や飛来する数羽のカモたちを観察し、親子の会話が生まれます。私が作業していてもとくに話題にされることはなく、その親子にとっては私の身体も含めて風景として記憶されているはずです。また、うちの田んぼにはスッポンが棲んでいて年に1, 2度出会います。大小様々なスッポンたちは、毎年近所の子どもたちに興味や恐怖を与えています。田植えの時に、石だと思って長靴で土の中を探って動いた時の感触には、未だに慣れることができません。近隣では宅地化が進み、そのような風景が減っており、私はできる限りこの風景の一部としての存在を続けていきたいと考えています。
一方畑では、野生動物たちとの戦いも待っています。右の画像は、昨年植えた落花生が何者かに全て持ち去られた後を撮影したものです。収穫後に茹でた柔らかい落花生は、乾燥したものとは全く違う食感で、とても楽しみに育てていただけに無くなったことは衝撃でした。食べられた殻が残され、掘り返し方がそこまで荒々しくないため、犯人はおそらくカラスだと思われます。これはさすがに風景の一部などと見過ごすこともできず、今年リベンジに燃えています。といっても網を張るくらいですが。
実はこの推測に辿り着いたのは、うちの畑にカラスが下りてきていたこと、隣の墓地もカラスに悪戯を繰り返されていることなど、近所の先輩方に教わった事実に基づいています。この先輩方には余った苗を分けていただいたり、育て方を指南いただくこともあります。この方々とは農作業のみに限定された、機能的な関係でした。しかしこの機能的な関係が、同じ居住地域での全く別の、子どもを介したボランティアとしてのコミュニティでの関係において大きな信頼となり、地域の包括的な関係へとつながる展開が待っていました。
私はヒューマンインタフェース学会において、2005年から会誌委員としてお役目を拝命し、皆さまにご指導いただいて機能的な関係を築かせていただき、シンポジウム、研究会を含め15年以上経過して、共同研究など多くの方と包括的な関係へとつながっていることに類似性を感じます。これまでのご縁に感謝し、学会組織のエージェントとして、その発展に寄与できるよう役割を果たしていければと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします!