井野 秀一(大阪大学)
東京や大阪の春の季節は,北国育ちの私にとって,昔話の「花咲かじいさん」の挿絵の世界に迷い込んだ気持ちになる.満開に咲いたサクラの光景にうれしくなって,思わず写真をパチリ.そして,その写真を実家や友人についつい送ってしまう.
最近,この春の情景に,「えっ!」と驚きが加わってしまった.それは,今までサクラだと思っていた花々が,実は違っていた(のかもしれない)のである.満開のサクラの花だと思って撮った一枚の写真を東京育ちの朋友に見せたところ,「これはモモの花だよ」の一言.「なんのこっちゃ?」と思ってポカーンとしていたら,「北海道はサクラもモモもウメも一緒に咲くから仕方がないね」で会話終了.何を隠そう,わたしはサクラとモモの違いを知らずに,ソメイヨシノ,エドヒガンザクラ,カワヅザクラ,ヤマザクラ,春爛漫だとウキウキして,ボーっと生きていたようだ.
早速,サクラとモモの違いを手元のスマホで調べてみた.出てくる,出てくる,見分け方の数々.本当に便利な世の中である.まずは開花の時期.ウメ,モモ,サクラの順番だ.しかし,寒暖差や地域によっては開花が重なるとの説明あり(ちなみに,北海道ではサクラとウメが5月に咲いていた).次は花弁の形.花弁の先が分かれたサクラと少し尖ったモモ.植物観察の世界である.さらに,幹肌.ゴツゴツした横縞がサクラで,ツルツルした斑点模様がモモ.そして,葉のひらくタイミング.花の後に葉が出てくるのがサクラで,同時にひらくのがモモ.これだけの違いがあれば,サクラとモモの見分け方はバッチリといいたいのだが,なぜか自信がない.色の違いと香りが乏しいからだろうか.川沿いや小径を歩いていると,やはりどれも長年の「見た目」のパターン認識に倣ってサクラになってしまう.どうやら脳の再学習には相当の時間を要しそうである.春を楽しむことには何ら問題ないのだから,もとい「これでいいのだ」とギャグマンガの一節を思いつつ,でもサクラとモモが一瞬でわかってしまう「違いがわかる」人たちに憧れてしまう.
ところで,いまどきの介護食を食べたことがあるだろうか.一昔前と違い,食材の形や料理の彩り,それらは通常の食事と何ら変わらない「見た目」である.正直に驚く.食品加工の技術力の高さと商品化の日進月歩に唯々感嘆する.種類も和洋中と大変豊富である.これなら老後の食卓の楽しみは大丈夫と思う気持ちになる.しかし,それと同時に感嘆とは異なる驚きもある.期待とは裏腹の違和感と表現してもよいかもしれない.どれを食べても歯ごたえがないのである.誤嚥を防ぐための食事だから当たり前と言えばそれまでだが,なんとも不思議な感覚である.肉も魚も野菜も,見た目と味はそれなりに異なっていても,歯触りと舌触りはソフトでどれもこれも似ている.これは新鮮な驚きと体験であり,ある種の感覚ゲームのような趣でもある.
何だか楽しそうであるが,日常の食卓となると,その「見た目」と異なる食感の均一さは何とも言えず,毎日,それを食べたいと思えるかと考えるとかなり悩ましい.また,口を動かすことは機能維持で大切であるが,柔らかいものをよく噛むこと自体が案外と難しいかもしれない.とは言うものの,見た目そっくりの介護食の品々の登場とその技術的な進歩は見事である.そして,その新しい技術の先には更なる多くの課題が見えてくるのも事実である.きっとそれらの課題に対する様々な人々の奮励の積み上げが「介護食の未来」と生きがいある「人生100年時代」を一歩一歩と着実に拓いていくのであろう.
微妙な違いをもちつつ,美しいと感動させる自然の造形に対して,人工物は,その熱意と努力をもってしても,未だにかなわない.それにもかかわらず,人間は人間を思う意志で明日を創ろうとしている.そして,自然と人間へのわたしの疑問は果てしない.