岡田 美智男(豊橋技術科学大学)

 

コロナ禍がはじまる直前に、ちょっとばかり思い出に残る海外出張の機会を得た。ドイツ南西部の郊外にあるダグストゥール城を改装したセミナーハウスで一週間弱の泊まり込み、情報学分野でよく知られるダグストゥール・セミナーである。

 

いつものことながらバタバタと準備をすませ、なんとか異国の地に降り立った。その日は近くの街まで移動して宿を取るつもりでいた。「とりあえず街歩きでも……」と宿に荷物を預けようとしたら、なんと、予約したはずのホテルの名前が出てこない。メモをしておくのを忘れたばかりか、とっさのことでローミング設定もままならずネットからも見放されてしまった。「うー、なんてことだ」、小雨でも降りそうな夕暮れ近くに、見知らぬ街をさまよい歩くのはとても辛いものだ。

 

とりあえずネット回線を借りなければと思い、小さな宿に飛び込み、事情を伝えた。そこで予約したホテル名を確認したら、たまたま飛び込んだ宿であり、なんとか事なきを得たのだ。

 

でも、どうしてこんなことに……。「まぁ、ネットにどっぷり浸りすぎていた」と考えてもいいだろう。私たちの生活は、ネットから切り離されてみると、なんとも脆いものだ。

 

ただ、よくよく考えれば、情報技術の助けもあって、自分ですべて予約できてしまう、自己完結できてしまう世の中になってきた。宿を予約しておけば安心だし、「片田舎でタクシーなんてつかまるだろうか……」などと心配する必要もない。予定通りに行動でき、目的地にきちんと辿りつける。ホテル側も、タクシー屋さんも、余分な手間を掛ける必要がなく、料金も格安になる。経済的な合理性の観点からは、願ったり叶ったりというわけだ。

 

しかし、どうも腑に落ちない。どうして地球の裏側から、現地のタクシーを予約しようとするのか。信頼を欠いた社会は、とかく高コストになりがちだ。経済的合理性を追求するなかで、いつの間にか、その土地が冷たく痩せたものになってしまったのではないのか。

 

どうなってしまうかわからない。けれども、とりあえず一歩を踏み出せば、地面がそっと支えてくれる。そんな風に、どこでも宿に飛び込めば、空き部屋が十分に用意されている。その土地に行けば、タクシードライバーはちゃんと笑顔で待っていてくれる。もっと相互に委ねあった社会だったはずなのだ。これが本来の社会の豊かさというものだろう。異国の土地で、心が折れそうになったのは、筆者の心が弱くなっていたからではない。いつの間にか冷たく痩せ細っていた、その土地や社会のせいなのではないのか……。

 

肝心のセミナーの合間に、そんな屁理屈を考えていたら、なんと次の災難が襲ってきた。予約してあった帰りの便が台風のための欠航に……。「もう、なるようになれ!」の境地である。

 

なんとか探してもらった帰り便は、中国の成都経由、大阪着。乗り継ぎのための待ち時間がハンパない。「そうか、ここは成都か。せっかくなので四川料理でも!」と気を取り直して、近くのレストランに足を運んでみた。テーブルにあったメニューの中で、中身が想像できたのは「担々麺」。ただ、実際に運ばれてきたのは、とても塩辛いものだった。しかも、その椀には汁がない(笑)。「あれっ、これって担々麺なの? もしや、からかわれてるのか……」などと思いつつ、塩辛い麺を口に運ぶたびに、どんより心が沈んだものだ。

 

後から知ったのだけれど、これはまったくの無知からなのだ。担々麺発祥の地である四川では、「汁なし担々麺」が一般的だそうだ。寒い地方で肩に担いで麺を売り歩く……、そんな姿を思い浮かべれば、「汁なし担々麺」であるのもうなづける。こんなことがあって、担々麺はしばらくマイブームというか、わが家の定番メニューに加わったのである。

 

偶然には「やってくる偶然」と「迎えに行く偶然」があるという。突然の欠航は「やってくる偶然」であり、汁なし担々麺との出会いは「迎えに行く偶然」だったのだ。「どうなってしまうかわからないけれど……」と、その場に委ねたような行為は、「迎えに行く偶然」を引き込むうえでは必須のものなのだろう。

 

ダグストゥール城を改装したセミナーハウス