松田昌史(NTT コミュニケーション科学基礎研究所)
リレーエッセイ執筆という貴重な機会をいただき、ありがとうございます。
ご依頼はたいへんありがたかったのですが、安請け合いしてから困り果ててしまいました。何を書けばいいのか考えあぐねたのです。実は正直に申し上げまして、このリレーエッセイ企画のことも依頼があるまで存じ上げませんでした。テーマは自由とのことですが、皮肉なことに、これほど不自由なことはなくて眉が曇ってしまいました。
曇った眉に火がついた挙げ句、掲載されている全てのエッセイを拝読することにしました。本リレーエッセイの傾向を調べつつ、テーマを決めるためです。執筆時点でちょうど50篇ありました。社交辞令でもなんでもなく、掲載されているエッセイはどれも興味深いものでした。本当に全部読んだ証拠画像として、スプレッドシートで作った閲覧メモを以下に掲載しておきます。
それらの中でも、僕は伊藤京子先生(6回)と大倉典子先生(38回)のエッセイに深く考え込みました。両先生とも、工学部に進路を決めたとき、いかに女子学生が少なかったかを述べていらっしゃいます。現在は、おふたりの学生時代よりも良い方向に変化しています。それでも、いまだに「リケジョ」だなんだと騒いでいるわけですから、完全には解消されていないわけです。暗い気持ちになります。
僕は男性として生まれました。誤解を恐れずに言えば、今の社会の中で恵まれた側に生きています。そのような立場から述べても大きなお世話だと言われてしまうかもしれませんが、僕はジェンダー・ギャップをもっと埋めていくべきだと考えています。ゆっくりではあるけれどギャップは着実に埋まっているのでしょう。しかし、やはりまだまだで、眉をひそめざるを得ません。
両先生のエッセイからは、女性として生きてきたことへの恨み言ではなく、むしろその人生を謳歌していることが読み取れました。もしかしたら、僕が妙に心配して騒ぎすぎているのかもしれません。
けれども、やっぱり残念に思うのです。
女性が「自分は女性として生きてきた」ということをわざわざ書くような状況はおかしい。両先生を貶しているわけではありません。両先生や他の女性たちをそうさせている社会を残念に思うのです。
全50篇のエッセイのうち、44篇は男性執筆者によるものです。それらのうち、「自分は男性として生きてきた」という視点から書かれたものは皆無です。このことは、今の社会では男性が標準で、女性は異質であると暗示しているかのようです。異質な存在だから、そのことを言い訳しなければ社会に受け入れられないという不文律でもあるかのようです。実際にあるのかもしれません、気づいてないだけで。
あるべき社会は、どのような性であれ(ここで「どちらの性」と書かないのは、より多様な性自認を受容するからです)、自身の性をテーマにエッセイを書く必要のない社会だと考えます。たとえば、どのような眉毛の形をもって生まれてきても、それはエッセイのテーマにはなりにくいし、取るに足らないことです。それと同じように、どのような性で生まれても構わないし、取るに足らない違いだと言える社会の到来を望みます。
もっとも、奈良時代から江戸時代あたりまでは、眉毛を剃って額の高い位置に楕円を描くのが公家などの嗜みだったようですが。当時の肖像画や時代劇での再現を見ると、滑稽で笑っちゃいますよね。
伊藤先生と大倉先生は腹を立てるかもしれないけれど、おふたりのエッセイが公家の眉のように古くさい習俗だといってお笑い種になる日が早く来るといいなぁと思います。もちろん、このエッセイも同じくです。