福森 聡(香川大学)
喜びの声を上げながら、その子は「北斗七星、はじめて見た」と言った。
「え、どういうこと?」
都会に住むその子が言うには、夜空を見上げても星なんてほとんど見えないらしい。
うれしくなった私は、次々に星座を教えてあげ、その度にその子もうれしそうに興味深そうに星空を見ていた。
雄大な山麓の見えるのどかなところで生まれ育った私にとって、星空は生活の一部だった.
だからこそ、星が見えないと言ったその子との出来事は衝撃で今でも忘れられない.
幼いながらに自分の暮らす環境を誇らしく感じた瞬間だった。
当たり前だからこそ日常の中に贅沢があることにはなかなか気づかない。

 

子供の頃、我が家に限らずどの友達の家に行っても庭を駆け回って遊び、庭先でキャッチボールもした。
春になれば裏の山から筍と山椒の葉を取ってお味噌汁にして食べ、夏になると庭ではしゃぎながら花火をし、秋にはお風呂を沸かした薪の残り火で焼き芋を焼いた。
初めて焼き芋を作った時、芋を薪の上に直接置いたせいで、消し炭にしたのはいい思い出だ。
家の外ではいろいろと甘えさせてもらっていた。
小学校のそばには町営の小さな図書館があったが、夕方の利用者は小学校の子供ばかりなので、クラブでのスポーツの前に宿題を片付ける場所として半ば独占的に利用していた。
宿題を速攻で片付けたら、ランドセルは図書館に残して鬼ごっこなどしてクラブが始まるまでの時間を過ごした。
思い返せば、挙げればきりがないほどのたくさんの贅沢な経験をしていた。
今のわたしの住居でこんな事は到底できないので、お金を払うことでしかこれらの経験はできない。
中にはお金を払ってでさえ出来ないようなことや、子供だったから甘えさせてもらっていたこともある。

これらの体験が贅沢なことだなんて、あの頃の私は思いもしなかっただろう。

 

59回リレーエッセイ画像2

 

時は経ち、世界はCOVID-19の流行の真っ只中のこと。
なかなか実家に帰ることが出来なかったが、感染が落ち着いたスキをみて実家へ帰った。
おいしいさつまいもをもらったとのことだったので、家族皆で食べることになった。
季節はそろそろ冬になろうかという頃、この時期ならやはり焼き芋しかないと、父と裏の山から焚き木を集めて焚き火をはじめた。
寒空の下、焚き火を眺めながらしばらくぶりにお互いの近況を話し合った。
ゆったりと流れる時間の中で直接話せることがこれほど貴重なことなのかと気づかされた。
毎日の生活に忙殺され日常の贅沢に気づくことはなかなかできないし、子供の頃のような環境はないけれど、今までよりほんの少しだけ1日を大切に思うことはできる。
そうすれば、気づかない贅沢に気づくことがあるだろう。
気づけたおかげで、ただでさえおいしい焼き芋がさらにおいしくなったような気がした。