吉川 榮和(京都大学名誉教授)

ヒューマンインタフェースの心理と生理の表紙

「ヒューマンインタフェースの心理と生理」は2006年3月に出版した講義用図書である。その頃の私は定年退職間際でこの本を使って講義する予定はなかった。だからこの出版では当時研究室の下田宏先生に加えるに、その頃長らく共同研究者だった丹羽雄二先生(元関西電力)と仲谷善雄先生(元三菱電機)に共同執筆をお願いした。三人の現役の先生方に講義で活用頂くことを期待したわけである。私自身がこの教科書を講義で使用したのはその2006年6月から2ヶ月間、中国の大連理工大学ソフトウエア学院の2回生の日本語受講者に週2回全体で8回の集中講義「技術日本語」で副読本として利用しただけである。さて今年4月、7回目の重版が出されたのは、共著者の3先生以外の方々にも講義用に長く利用されてきたものと思われる。退職以来16年間我が国でのヒューマンインタフェースの教育に本書がいささかでも役に立っていたなら幸せであるが、その内容をまず簡単に紹介する。

 

発刊当時はヒューマンインタフェース学会が発足して間もない頃で、携帯電話からバーチャルリアリテイ、ユビキタスコンピュータ、拡張現実感、人やペットのような動きをするロボットのような新しい技術が次々と登場する時代だった。そのような時期の出版として、先端的な技術開発の最前線を網羅的に紹介するものでもなく、また製品開発者の基礎知識として製品の使い勝手を評価するユーザビリテイの解説書でもなかった。本書では著者たちが実際に行ってきた研究経験を振り返って、様々なヒューマンインタフェースを学ぶ後進に是非体得してほしいと考えた基礎知識として、様々な機械システムに関わる人の振舞いを理解するための心理学的および生理学的な基礎知識とその応用の仕方を解説するものとした。この本の執筆分担で私が取り上げた主題は、「ヒューマンエラー」である。ヒューマンエラーを行動主義心理学、認知心理学、社会心理学の3つの見方から定義し、その様々な現われ方を分類し、ヒューマンエラーの防止対策を解説している。

 

私がヒューマンエラーを取り上げたのは、原子力発電の安全性に関わっていたからである。そこでは、「フロイトの心理学」の3つの心的組織の概念モデル、すなわち個々の人々のエス(本能)と自我(理性)を強く規制する超自我(集団の文化的要因)、それが原子力発電の大事故に大きく関わっていたことを京大退職の5年後痛切に体験した。それは2011年3月11日東日本大震災に端を発した東京電力福島第一原子力発電所の事故である。ここでの集団の文化的要因とは誤って構成された組織規範である。具体的には当時の原子力事業界が業界内ばかりでなく社会全体に流布させた「原子力安全神話」である。これは要するに「日本の原発技術は世界最高だから米ソのような原発大事故は絶対起こさない。」という根拠なき信念から「日本の原発技術は完成されているから最早改善の余地がない。だから原発安全性向上の研究は不要」と安全対策の向上をさぼり、さらに「原発安全性を疑問視する専門家は村八分にする」。これが東電福島事故で馬脚を現した原子力事業界の実態(ムラ意識)であり、事故後11年の今日、安全規制をいくら強化しても社会の信頼を回復できず、それが国の計画どおりに原発の再稼働が進まない一因となっている。

 

私には現在のウクライナへのロシア軍侵略という突然降ってわいた世界平和の最大危機にも「組織の集合的無意識」が働いているように思われる。危険なものは核兵器や原発だけでない。AIやロボットも使い方を誤ると大きな危害をもたらす。「(組織の)集合的な無意識」は如何にあるべきか、哲学にまで遡って模索する毎日である。