大倉 典子(芝浦工業大学SIT総研特任教授/中央大学大学院客員教授)
ヒューマンインタフェース学会は、歴代会長に土井美和子先生や大須賀美恵子先生もおられ、私が所属する他学会と比較して女性会員の割合も多い印象ではある。それでも、2022年度の役員21名中女性は3名、このリレーエッセイも、過去37回で女性執筆者は4名に過ぎない。私は土井先生や大須賀先生より年上なので、当学会女性会員の最高齢者かもしれないと思い、女性としての自分史を書くことにした。
1972年東京大学教養学部理科Ⅰ類入学時、定員1092名で女子学生は11名だった。工学部計数工学科3年進学時は、学科で唯一の女子学生(4年生は男子のみ)だった。大学院工学系研究科修士課程計数工学専門課程進学時は、同専門課程で歴代2人目の女子学生で、この年の工学系研究科修士課程(定員約500名)唯一の女子学生でもあった。しかしこれは、家庭環境と高校までの学校環境において、「女性だから・・・」と行動を制限された記憶が無く、自分の興味の赴くままに進路を決めた結果であった。
女子学生の就職の難しさを知る学科の教員や職員が、それを知らない本人より熱心に就職活動してくれ、修士課程修了後は、日立製作所中央研究所に就職した。ただし、当時同社は大卒女子を正式採用しておらず、高卒扱いだったことは就職後に知った。仕事は楽しかったが、給与は同期の大卒男子と大きな格差があり、労働組合に相談したら「高卒の給与として計算は正しい」と回答された。
キャリアが大きく変わったのは第一子出産後で、当時会社員に育児休業制度は無く、お願いする予定だった保育ママさんは急に廃業され、通える範囲の保育園に空きは無く、退職しか無いと考えた。数年後、同じ社宅で、複数の親に順番に住み込んでもらって仕事を継続した方がいて、自分は仕事を継続する意欲が不足していたと痛感した。退職の半年後、日立製作所の関連企業に、「週2回出社、それ以外は在宅ワーク」という条件で入社し、出社時は母に自宅に来てもらった。1980年代の在宅ワークは、珍しかったと思う。
その後も、第二子出産に伴う退職、ベンチャー企業への就職、休職しての博士課程進学と博士号取得を経て、芝浦工業大学に職を得、定年を迎えた。
日本学術会議の第24期(2017年10月から3年間)で第三部のジェンダー・ダイバーシティ分科会で活動し、私より若い世代でも「女性だから・・・」と行動を制限されたり「かわいい」を強制されたりした経験のある女性研究者が大半で、自分の過去の環境に初めて感謝した。また21世紀の今でも、親や教員のステレオタイプな考え方が女性の生き方の選択肢を狭くしている現実を知った。
このエッセイを読まれた女性には、肩ひじ張らずに適当にやっていても私みたいになんとなく何とかなる人生を歩める可能性を知って頂きたい。一方男性には、家族や仕事や社会で関わりのある女性や他のマイノリティに対し、その方が自分らしく生きられるように支援してあげて欲しい。
2050年に、地球温暖化抑制への方策が効果を上げていることと、日本のジェンダーギャップ指数が著しく改善していることを期待したい。