青柳西蔵(駒澤大学)
私は北海道の出身で、高校の卒業まで道内で育ちました。同じ出身の方は分かっていただけるのではないかと思うのですが、私は、学校の授業で日本史を学ぶとき、非常な疎外感というか、他人事感を味わいました。歴史に登場する地名が、身近なものであることがあまり無いからです。その反動で、大人になり北海道を出て京都や東京に住むことになると、そこらじゅうが歴史に溢れていて非常な興奮を覚えました。狭い路地の小さな石碑が、そこが名のある貴族や武将の縁の地であることを示していたり、なんとなく歩いていた散歩コースが歴史の教科書で見た出来事が起きた場所であることに突然気づいたりします。
学校で、地域の歴史について教わったことも少しはありました。しかし、私が親の都合で引っ越しを繰り返していたため、それが自分と深く結びつくものでもなかったのです。そこで、自分に関係がある歴史が知りたいと思い、自分の祖先を辿って戸籍(除籍)謄本を取り寄せてみたことがあります。この手続きはほとんどが紙の書類のやりとりが必要で、かなり面倒です。そのため途中で飽きてしまい、父方の曽祖父まででやめてしまいましたが、それなりに面白い事がわかりました。
まず、曽祖父は明治29年生まれでした。彼は三男で、長男は明治11年生まれでした。ということは、曽祖父の父(高祖父)はほぼ確実に江戸時代の生まれです。当たり前のことではありますが、自分の血筋が江戸時代から続いていることを実感しました。
初めて知りましたが、高祖父の名前は左司馬といいました。戸籍は手書きだったため、はじめはなんと書いてあるのかすら分かりませんでした。調べてみたところ、これは司馬遷等の司馬と同じで、中国の官職に起源がある名前のようです。現在の感覚では変わった名前に思われますが、明治時代くらいだとそれなりにいる名前だったようです。
また、祖父とその兄は旭川生まれでしたが、祖父の妹と弟が樺太で生まれ、さらに曽祖父はその後樺太で亡くなっていました。曽祖父が樺太にいたことがあるという話をどこかで聞いたことがありましたが、これが裏付けられました。曽祖父が亡くなったのは昭和9年のことで、祖父が6歳のころでした。その後すぐ、曽祖母は4人の子供をつれて家族は北海道に戻っていました。
何故か親戚がいる旭川ではなく函館に移っているため、曽祖母が一人で、しかも太平洋戦争の時期に、子供達を育てたことになります。おそらく、非常に苦労をしたと思います。
戸籍謄本自体にも面白い点がありました。非常に沢山の人が書いてあるのです。例えば、曽祖父が一時期同居していた祖父の兄の戸籍には16人が含まれます。これは、兄弟姉妹が現在より多いためでもありますが、戸籍自体が現在の制度と異なっていたためもあるようです。つまり、当時の戸籍は一緒に住んでいる人全員を含んでおり、住民票の機能が含まれていたようです。上述の16人には、曽祖父の兄の家族、曽祖父の家族、さらに曽祖父の兄弟姉妹が含まれています。現在だと、一緒に住んでいても戸籍はおろか住民票すら異なることがあります。制度を通して、家族や暮らしの現在との違いが見えます。
とりとめのない内容になってしまいましたが、戸籍を調べることで自分と歴史のつながりが感じられました。
面白いので、今度は母方の戸籍を辿ってみようと考えています。