赤坂文弥(産業技術総合研究所)
私は、毎日、家族(妻と2人の子供がいる)のために料理をしている。
こんなことを書くと、「イクメンだ!」などと言われてしまうが、あまりそういった意識はない。単に、料理をするのが好きなだけである。その意味では、家事というよりも、趣味と言った方が適当かもしれない。
何のために、料理をするのか?
家族の健康のため、自炊して節約するため、、、などなど、いろいろな理由はあるが、よくよく振り返ってみると、「自分が食べたいものを作って食べられる」という理由が、かなり大きなウェイトを占めているかもしれない。
もちろん、その日の献立を決めるときは、家族(特に子供)が好きなメニューを出来るだけつくる、毎日同じものは作らない、出来るだけ冷蔵庫に残っている食材を活用する、など、いくつかの制約条件を複合的に検討するが、「今日、自分は何を食べたいか?」ということが最終的な決め手になることも多い。利己的だ、とも言える。
さて、私の専門は、サービスデザイン、デザイン研究である。ここ数年、この領域(には限らないが)では、サステナビリティやウェルビーイングという、社会性を持ったテーマに関する取り組みや研究が、急速に増えている。
そこでは、何らかの重要な社会的課題(医療、環境、福祉など)に取り組む活動が展開されている。そして、そういった活動の多くは、「困っている人(問題を抱えている人)を助ける、支援する」という態度(アティテュード)とアプローチで、そのための技術、サービス開発が行われることが多い。
このような問題解決型の態度とアプローチを否定する気はない。むしろ、自分もそういったプロジェクトを推進しているし、重要な(王道的な)考え方だと思っている。
しかしながら、そういった問題解決型の取り組みにおいて、「自分自身が何をしたいか?」「自分がどうありたいか?」という、<一人称的>な視点が抜けてしまうと、もったいない。
社会的課題のための技術開発・サービスデザインという視点に立った時、我々自身は、技術やサービスの作り手であると同時に、その受け手としての社会の構成員でもある。自分の生活も少なからず影響を受けるのである。
例えば、高齢者のためのテクノロジーを考えている若手研究者も、いつかは高齢者になる。
その観点で言えば、「自分がどうありたいか?」「自分がどういう社会で暮らしたいか?」という、一人称的な視点で、技術・サービス開発を捉え直してみることも重要なのではないだろうか。
もちろん、こういった考え方が行き過ぎてしまうと、ユーザや社会を無視した取り組みになってしまう、という懸念もある。しかしながら、自分の<希望>や<意志>を積極的に組み込んでいかないと、研究・開発の活動自体が楽しくなってしまう。自分自身にグラウンディングできない「やらされ仕事」になってしまうと、いい成果は生まれにくくなる。
このようなことから、<一人称>視点(自分がどうありたいか?、自分がどういう社会で暮らしたいか?)で、自分自身の研究/開発活動の内容やその社会的影響を捉え直してみることは有意義だと考えている。